栄養寺
「栄養」という熟語のもとになった寺?
栄養寺は伊予市灘町の開拓を行った宮内九右衛門、清兵衛兄弟ら宮内家の菩提寺です。大阪の陣から難を逃れ、伊予の国の各地を転々としていた豊臣秀頼の子・苦厭上人を招き、寛永14年(1637年)開山されました。「栄養寺」という寺号は他に類がなく、「栄養」という言葉が使われた最も古いものであるといわれています。
栄養学の創始者・佐伯矩(ただす)博士は幼少期を伊予市で過ごし、この栄養寺にもよく立ち寄っていました。以前は「えいよう」を、「営養」(食を営めば生命が養われるという意味の『営食養生』を略したもの)と表していましたが、「食を栄えさせ栄養を摂れば国民の体格も向上する」という考えから、「栄養」のほうが適切であると佐伯博士が文部省に進言し、大正9年(1920年)から「栄養」の文字が公用語となりました。
灘町を生んで育てた人たちが眠る寺
栄養寺の山門は、弘化2年(1845年)に建立されたもので、総檜(ケヤキ)造りのものです。ケヤキは木目が美しく、丈夫で長持ちするため城門や寺社によく使用されています。龍や亀の彫刻が施され、さらに豪奢で格式高い印象です。平成28年、市の景観重要建築物に指定されました。
本堂の左手には、灘町開拓に寄与した宮内清兵衛夫妻、兄・九右衛門、宮内兄弟の父・庄左衛門らの墓が立ち並んでいます。他にも正岡子規の書道の先生だった漢学者武知五友や、郡中で初めて寺子屋を開いた宮内柳庵、伊予市の著名な俳人・仲田蓼村など、灘町を育てた学者たちの墓が残されています。
くれぐれも火事にはご用心
参道入り口にある火防地蔵(ひぶせじぞう)は、享保6年(1721年)灘町5丁目に建立されたものを、明治42年に移設しました。江戸時代の火災は一大事。特に町家や長屋が密集していた灘町では、自分たちで拓いた町の防火を、当時の人々が切に願っていたことがうかがえます。皆さんも、火事にはくれぐれもご用心を。
住所 | 伊予市灘町52 |
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お問い合わせ | 089-982-0813 |
営業時間 | 参拝自由 |
駐車場 | 3台(無料) |