山吹神社
ホタルの里に残る山吹御前の伝説
倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで見事平氏の大軍を討った木曽義仲の便女(びんじょ)だった、山吹御前。巴御前とともに義仲を支えた女性です。
源頼朝と決裂し追われる身となった義仲に、山吹御前もついて行きたかったでしょうが体を壊し、京に残されてしまいました。
義仲が亡くなった後、山吹御前は生前に伊予守であった義仲の縁を頼りに伊予へ落ち延びます。灘浦(現在の双海町上灘)にひそかにたどり着いた一行は、上灘川に沿って山を登り始めますが、次第に弱っていく山吹御前を少数の供の者が竹を切って笹舟として乗せ、山頂まで引き上げたそうです。
双海町翠小学校の東にある坂道には「曳き坂」、山頂には楯で身を隠し一夜を明かしたため「築楯」、御前が亡くなり死装束に改めたとされる場所には「衣装替え地」と、それぞれ地名が残っています。
長州大工の見事な細工
車で走っていると見逃してしまいそうな場所に、山吹神社はあります。静かな山あいのこの地で、山吹御前は心安らかに眠っているのでしょうか。木曽義仲ゆかりの地とはいえ、伊予はすでに源頼朝の所領となっていたので、山吹御前一行は気が気ではなかったでしょう。
しかしながら、純朴で心優しい地元の人たちはその亡骸を弔い、さらに明治25年(1892年)、伝承が途絶え五輪塔が粗末に扱われないようにと地元の有志が、愛媛や高知で社寺などの建立に腕を振るっていた長州大工に依頼し、山吹神社を建立します。
長州大工とは見事な一刀彫の彫刻を随所に施す工法で有名な周防大島出身の大工集団です。特に愛媛で活躍したのは門井宗吉・友佑兄弟で、山吹神社の本殿を飾る彫刻は弟・友佑の作です。意匠の迫力に思わず見入ってしまいます。
苔むした五輪塔が郷愁を誘う
山吹神社と県道の間に、ポツンと五輪塔が建っています。傘の部分は苔むし、一層もの悲しい雰囲気が漂うこの五輪塔が、山吹御前の墓といわれています。
山吹御前の出自は不明ですが、大洲市肱川地方の豪族の姫であったとする説があるそうです。出生時、庭にたくさんの山吹が咲いていたため山吹の姫、山吹御前と呼ばれたとか。
また、木曽義仲の便女(召使い、美女の意味)とされていますが、妻であったとする説もあります。美しく強い女武者の、乱世に翻弄された生涯は今もなお日本各地で語り継がれています。
住所 | 伊予市中山町佐礼谷 |
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お問い合わせ | 089-994-5852(伊予市観光協会) |
営業時間 | 参詣自由 |
駐車場 | 無し ※路肩に駐車する場合は通行車両にご注意ください |